運営会社

会社概要

会社名 株式会社 岸本吉二商店
代表 岸本 敏裕 (ごあいさつページ
所在地 本社:兵庫県尼崎市塚口本町2丁目8番25号
物流センター:兵庫県神戸市北区大沢町日西原
設立年月 昭和34年8月12日
資本金 12,500,000円
事業内容 鏡開き・菰樽商品の製造・販売
主たる取引先 白鶴酒造株式会社・大関株式会社・剣菱酒造株式会社
菊正宗酒造株式会社・月桂冠株式会社・黄桜株式会社・全国主要醸造元
私たちについて https://company.komodaru.co.jp

アクセス

阪急神戸本線 / 塚口駅 徒歩5分
阪急伊丹線 / 稲野駅 徒歩13分

※お車でお越しの方はご連絡ください。駐車場をご案内させていただきます。
会社周辺は、道幅が大変狭くなっておりますので御注意ください。

会社沿革

岸本吉二商店の歩み

世の中の出来事

1872年
(明治5年)

岸本吉二(現社長 曾祖父) 誕生
岸本吉太郎(吉二の父) 菰縄仲介

1872年
(明治5年)

戊辰戦争終結(1869年)
廃藩置県(1871年)
富岡製糸場操業開始(1872年)

1900年
(明治33年)

岸本吉二商店 創業

1900年
(明治33年)

京都帝国大学(後の京都大学)
創立(1897年)
パリ万国博覧会 (1900年)

1902年
(明治35年)

岸本長三郎(現社長 祖父) 誕生

1902年
(明治35年)

日英同盟(1902年)
日露戦争(1904年)

1929年
(昭和4年)

岸本一司(現社長 父) 誕生

1929年
(昭和4年)

世界恐慌
北海道駒ヶ岳が噴火

1931年
(昭和6年)

岸本卓司(現専務 父) 誕生

1931年
(昭和6年)

満州事変
大阪城天守閣再建

1945年~1950年
(昭和20~25年)

戦時中は菰樽製造中止
菰樽製造再開(1950年~)
長三郎 死去
一司 社長就任

1945年~1950年
(昭和20~25年)

第二次世界大戦(1945年~1949年)
固定相場制:1ドル=360円
湯川秀樹、ノーベル物理学賞を受賞
『サザエさん』の連載開始

1959年
(昭和34年)

株式会社 設立

1959年
(昭和34年)

皇太子(今上天皇) ご成婚

1961年
(昭和36年)

岸本敏裕 誕生(現社長)

1961年
(昭和36年)

流行歌「上を向いて歩こう」
ユーリイ・ガガーリン
飛行士が地球一周に成功

世の中の出来事

1963年
(昭和38年)

岸本章男 誕生(現専務)
1.8リットル菰樽発売

1963年
(昭和38年)

『鉄腕アトム』放映開始
ケネディ大統領暗殺事件

1965年
(昭和40年)

技術革新

1965年
(昭和40年)

いざなぎ景気
プロ野球第1回ドラフト会議が行われる

1988年
(昭和63年)

敏裕 入社

1988年
(昭和63年)

青函トンネル、東北・上越新幹線開通
東京ドーム完成

1995年
(平成7年)

震災で倉庫半壊

1995年
(平成7年)

阪神・淡路大震災

1999年
(平成11年)

敏裕 社長就任

1999年
(平成11年)

ユーロ始動
映画「マトリックス」公開

2003年
(平成15年)

ミニ鏡開きセット発売

2003年
(平成15年)

千と千尋の神隠し(2001年)
イラク戦争開戦

2006年
(平成18年)

もりあげ樽Donpaレンタル開始
卓司(会長) 死去

2006年
(平成18年)

トリノ冬季オリンピック開幕
ライブドア事件

2013年
(平成25年)

一司(相談役) 死去

2013年
(平成25年)

富士山が世界文化遺産に登録される

ごあいさつ

弊社は明治33年(西暦1900年)の創業以来、菰樽の部材である菰縄を作り続けている会社です。
創業当初から、日本酒の蔵元様を得意先として菰樽を提供しておりました。
菰樽や鏡開きは、日本の方をはじめとして各国の方々に知っていただきたい日本の伝統文化です。
「めでたいな.com」は、そんな日本のお喜び文化をもっと身近に感じてもらいたいという想いで立ち上げました。
数少ない菰樽の製造元として、我々が伝え守っていかなければ残らない未来があると思っています。
「お宅があったから、菰樽の文化が残った。」
そう言っていただけるように、これからも一つ一つ丁寧に作り続けていきたいと考えています。

1.菰樽のはじまり

「菰樽」
もうこの字を読める人は少なくなってしまった。
この字は「こもだる」と読む。

菰樽のはじまりは江戸時代にさかのぼる。
灘・伊丹の日本酒が江戸でたいへん好まれた。
江戸後期には江戸で飲まれる日本酒の八割は灘・伊丹のものといわれている。

日本酒は杉でできた樽に入れられていた。
当初、馬の背に乗せて運んでいたが、江戸時代に入ると船で運ぶことが多くなった。
馬に乗せて運べばそのままでもよかったが、
船で大量に運ぶ場合、荒波から樽を守る必要があった。
そこで杉樽を菰(こも)で巻いた菰樽が考えられた。
菰は今でいうプチプチと同じ役割である。

江戸時代の蔵元は、そのプチプチにデザインを始めた。
お酒の銘柄や印(しるし)が入られ、お酒の宣伝に使われたのだ。
そのデザインは優れた物が多くあり、今も残っている。
江戸時代のデザインが現役で残っているのも菰樽の魅力のひとつだ。

2.明治三十三年から
つくり続けている

尼崎は、伊丹や灘といった酒どころに囲まれていた地域だ。
尼崎では、江戸時代から農家の冬場の仕事として、
菰樽に使われる菰縄(こもなわ)づくりが盛んに行われていた。

明治時代に入り農家が作った菰縄を買い集め、集めた菰にお酒の銘柄を刷り込み、
蔵元へ納めることを家業としてきた。
明治三十三年、岸本吉二は岸本吉二商店を創業。
それより百年余り。
当時と変わらず、今もコツコツと菰縄をつくり続けている。

現在、菰樽の菰縄を作っている会社は全国でもたったの3社しか残っていない。
その中でも私たちが一番の大手だ。
いつまでもつくり続けることこそが、
大切な日本文化を残すことなのだ。

3.本物のよさを
知ってもらいたい

「晴れの日に使われるものだからこそ、心のこもったものを」
そう想うからこそ、職人による手づくりにこだわっている。
手づくりのよさは、人の温かさと職人の思いを感じるところにある。

菰樽の材料となる杉は、奈良吉野杉・京都北山杉で、樹齢八十年以上のものを使う。
菰に使う藁も、背の高いものを厳選する。
菰への印刷も、熱転写で行うことが主流ではあるが、
昔ながらの印刷手法の復刻にも力を入れている。

代々受け継がれてきたからこそ、感じることのできる本物のよさ。
是非、手にとっていただきたいと思うのだ。

4.絶滅危惧種

日本は過去の成長とともに、たくさんのものを捨ててきた。
その中の一つに、循環システムがある。
日本人はあらゆるものを循環させながら使ってきた。
菰樽もその一つだ。

高度経済成長の頃から、日本では少しずつ田んぼが減りはじめた。
それは菰縄に使う藁(わら)がなくなってきたことを意味している。
日本で三百年続いた、菰縄を作る仕組みが壊れはじめたのだ。

“今まさに、藁がなくなろうとしている“
“昔ながらの循環システムがなくなりつつある“
なくなりつつある循環システム。
その一つである菰縄づくりを無理して残す意味があるのであろうか?

はっきり言って「絶滅危惧種」
岸本吉二商店が動物であれば、きっとそうであろう。
そして自分たちの仕事も、そう位置づけている。
しかし、絶滅危惧種でよいではないか。
絶滅危惧種だからこそ、残せる未来がある。

5.あきらめない

昔ながらのつくり方を守ることは簡単なことではない。
菰樽に使う材料は、すでに入手困難なものも増えてきている。
機械も古いものを使うしかない。
メンテナンスも日々難しさを増すばかりだ。
一人前の荷師(にし)になるにも、最低でも数年はかかる。
しかし、それを続けるしかないのだ。

おかげさまで、菰樽づくりに誇りを持つ若いスタッフも増えてきた。
菰樽づくりをしたいと声をかけていただくことも少なくない。
藁の菰樽を今でも使いたいと言っていただけることもある。
とてもありがたいことだ。
そのような方がいらっしゃるかぎり、
この文化を残していこうと決めている。

「今我々が守らなければ 残らない未来がある」
だからあきらめない。

株式会社岸本吉二商店 代表取締役 岸本 敏裕

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